大正時代の壮大な演奏旅行―初代中尾都山と米川琴翁夫妻のロシア旅行
前回、1915(大正4)年に決行された初代中尾都山と米川琴翁夫妻のロシア旅行についてお伝えしましたが、この旅行は、第一次世界大戦中のロシアの慰問旅行でもありましたので、旅先では傷病兵への慰問演奏を行いました。
さて、今とは通信事情も交通網もまったく違う100年前の出来事です。今回は、旅行先でどのような演奏が行われ、どのような曲が演奏されたのか、当時の雑誌から再構成してみたいと思います。
旅行地
福井の敦賀から海を渡った一行が最初に訪れたのは、ロシア東端のウラジオストクでした。この町は現在でも東の玄関口として日本との交流も盛んです。
約2週間の滞在の後、一行は、シベリア鉄道に乗り込み、首都のペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)を目指しました。ペトログラードに約1か月間、続いてモスクワには約1週間滞在し、その後、満州の長春を経て朝鮮の京城(現ソウル)に1泊し、釜山を経て下関に帰着しました。
約3カ月間の旅行中の演奏状況は次のようでした。
- ロシアの東端ウラジオストク 8月2日~8月15日 演奏会6回
- 満州の都市ハルピン 8月16日~8月22日 演奏会1回
- ロシアの首都ペトログラード 9月7日~10月3日 演奏会26回
- ロシア第2の都市モスクワ 10月4日~10月12日 演奏会12回
- 朝鮮総督府の置かれた京城 10月25日~10月26日 演奏会1回
上記の5都市以外に船上での演奏なども含めると、演奏回数は48回、曲目は37曲、演奏曲ののべ数は230曲を超えました。では、都市ごとに演奏会の状況を見てみましょう。
最初の演奏場所:ロシアの東端ウラジオストク
福井の敦賀を出発した一行は、ウラジオストクに上陸し、2週間ほど滞在しました。その間に旅行先は満州からロシアの首都に変更され、目的は義援金募集ではなく第一次世界大戦で傷ついた兵士の慰問に変更されました(前回の記事をご参照ください)。
中尾都山が発行していた『都山流楽報』掲載の旅行記(『都山流楽報』74~79号)、及び都山の日記を戦後に息子の中尾治正が掲載した「笹屋集記」(『都山流楽報』471~480号)によると、ウラジオストクでの演奏機会は6回確認できます。
(1) 8月3日 試演会(野村領事主催) 於:日本領事館
1.《八段の調》箏三弦 2.《春の光》尺八 3.《千鳥の曲》箏2尺八 4.《御山獅子》三曲 5.《明治松竹梅》箏2尺八
(2) 8月4日 演奏会(在留邦人10名が主催) 於:徳永塘(宿泊所)
1.《千鳥の曲》箏尺八 2.《夏の曲》箏2 3.《今小町》三弦尺八 4.《春の寿》箏三弦 5.《岩清水》尺八 6.《残月》三曲
(3) 8月9日 演奏会(曙会主催) 於:曙会事務所
1.《千鳥の曲》箏2尺八 2.《残月》三曲 3.《松竹梅》三弦尺八 4.《越後獅子》三曲 5.《磯千鳥》三曲 6.《笹の露》三曲
(4) 8月11日 演奏会(西本願寺婦人会主催) 於:西本願寺
1.《千鳥の曲》箏尺八 2.《越後獅子》三曲 3.《茶音頭》三弦尺八 4.《小督の曲》箏独奏 5.《青海波》尺八 6.《八段の調》三曲 7.《松風》箏尺八 8.《御山獅子》三曲
(5) 8月12日 慈善会の音楽会(浦潮学務監督官より申込みされたもの 男女学生斡旋による学生後援慈善会主催)於:オキヤンスカイ学生遊園
1.《八段の調》三曲 2.《青海波》尺八 3.《楓の花》(手事のみ)箏2尺八
(6) 8月14日 日本小学校基本金寄付のための演奏 於:日本小学校
1.《六段の調》三曲 2.《秋の曲》箏尺八 3.《記念の鷹の羽》箏独奏 4.《霜夜》尺八 5.《笹の露》三曲 6.《千鳥の曲》箏独奏 7.《松竹梅》三弦尺八 8.《明治松竹梅》箏2
(1)は日本領事主催により日本領事館で行われ、当地の日本人約30名とロシア人新聞記者らが来場しました。
続く(2)~(4)は、箏三弦や尺八に親しみがある当地の日本人が主催したものですが、特に、(2)は日本人約150名が集まり、その他にロシア人が館外で立聞きが出るほどだった、「ロシア初の演奏会」と記述されています。
(5)はオキヤンスカイ学生遊園という学生が企画した音楽会の最終の出演者として招かれました。これは、「富豪の家族、市内の人々や軍人・学生2000名余り」が参加した非常に大規模な集まりであったようです。最後は日本小学校の基本金寄付という慈善演奏会であり、日本小学校で300余名の観衆を前に演奏しました。
以上のように、ウラジオストクでは、領事館での会を皮切りに、日本人主催の演奏会を重ね、最後は慈善演奏会を実施できました。その間も、一行は、現地の新聞社、銀行、商社等を訪問しており、その過程で演奏会が組まれたと考えられます。その結果、日本人だけでなくロシア人の聴衆を獲得し、慈善演奏会も実施できたのでしょう。
ウラジオストクでの演奏曲目
ウラジオストクでの基本のセットリストは、《千鳥の曲》や《八段の調》という比較的易しい曲から始め、《越後獅子》や《磯千鳥》などの三曲合奏、都山流尺八の独奏曲《青海波》や《岩清水》などが続き、最後は《御山獅子》や《笹の露》という大曲の三曲合奏で締めくくるもので、場に応じて5曲~8曲演奏されました。
合奏曲としては、《残月》《松竹梅》《明治松竹梅》などもあり、いずれも今でも人気の曲です。また、米川琴翁が貴重なレパートリーとして大切にしていた《春の寿》もあります。
尺八独奏では、都山がみずから作曲した《春の光》《青海波》《岩清水》《霜夜》が演奏されていますが、これらは、現代でも都山流の重要な曲として伝えられている曲になります。
生田流箏曲と都山流尺八の演奏家によるジョイント演奏会の曲目としては、現代にも通じるような定番の曲で構成されていたと言えそうです。
ただし、全6回のうち、いくつか注目したい点があります。
(3)だけは尺八の独奏曲は演奏されませんでした。これは、主催が曙会という、箏三弦の地元の会派であったために、尺八の独奏は控えたということなのかもしれません。
そして、(6)だけは、《八段の調》三曲合奏、《青海波》尺八のみ、《楓の花》(手事のみ)箏2面と尺八、という3曲でした。曲数も例外的に少ないですが、これは飛び入り参加だったからでしょう。曲目をよく見ると、歌がありませんね。《八段の調》はもともと器楽曲ですし、《青海波》も歌はありません。《楓の花》は明治新曲に分類される曲で、歌の部分があるのですが、(手事のみ)とありますから、歌は省略されているということになります。
つまり、この会は、歌なしの器楽のみの演奏だったということです。この理由は不明ですが、一つ考えられるのは、オキヤンスカイ学生遊園という演奏の場で、観客の多くがロシア人であったため、歌詞を理解できないと考えて器楽曲のみにしたのかもしれません。
また、(4)には《小督の曲》、(6)には《記念の鷹の羽》が演奏されています。これは、初代萩岡松韻が作曲した山田流箏曲のレパートリーで、通常、生田流箏曲家が演奏することはありません。かなり特別な出来事と言えそうですが、米川は東京在住時に教わった可能性があります。当時、山田流と生田流で曲を教え合い、交換するということもあったと聞いていますので、そのような交流の成果と考えることもできるでしょう。
まとめ
以上のように、ウラジオストクでの演奏曲目は、三曲演奏会としての基本のセットはあるものの、観客の層に合わせて柔軟にプログラムを工夫していた様子がうかがえます。ウラジオストクはロシアの中でも日本人が多い地域ですので、三曲をよく知る日本人が多い会では曲数を増やし、ロシア人が多い場合は器楽曲のみにしていました。
また、自分たちで新聞社などを回って演奏会をセッティングしていたようなのですが、短期間で話をまとめてすぐに実施するというのも興味深いところです。(1)の試演会から(2)の演奏会までは計画的に見えますが、その後は在留日本人の後援を受け、順に実施していきました。最後は、ロシア人の音楽会に呼ばれ、日本人小学校で慈善演奏会に出演するなど、滞在中にネットワークを広げて演奏機会を作り出したことが推測できます。
さて、旅はまだ序盤です。次回はペトログラードでの演奏会の様子を紐解きたいと思います。
この記事は、下記の論文をもとに構成しました。
福田千絵 2008年「海外三曲公演の先駆け―初代中尾都山と米川琴翁夫妻のロシア旅行」『お茶の水音楽論集 徳丸吉彦先生古稀記念論文集』215-226pp.
第一次大戦中のロシア慰問旅行~首都ペトログラード編