大正時代の壮大な演奏旅行―初代中尾都山と米川琴翁夫妻のロシア旅行

サンクト・ペテルブルグの現在の街並み邦楽コラム

皆さんは、もし自分が遠方で演奏するということになったら、どのような準備をするでしょうか。移動や宿泊の手配、楽器のメンテナンス、会場の下見やリハーサル、ちょっと思い浮かべただけでもやることはたくさんありそうです。
ですが、大正時代の名人たちは、思い立ってからほんの1カ月ほどでロシア旅行に出発してしまいました。そんな100年前の演奏旅行についてご紹介します。

初代中尾都山と米川琴翁夫妻

この旅行を敢行したのは、尺八都山流の創立者である初代中尾都山と箏曲家の米川琴翁夫妻でした。中尾都山(1876-1956)は、1896年に大阪で都山流を旗揚げし、この旅行の1915(大正4)年時点では各地に支部組織を広げ国内を精力的にめぐっていました。

一方の米川夫妻ですが、米川琴翁(1883-1969)は、当時は本名の米川親敏の名で活動していました。岡山県総社市の出身で葛原勾当の系統の生田流箏曲と地歌三味線を習得し、その後、東京で活動していましたが、弟子の輝子(1895-1967)と結婚し、旅行を決行した1915年は姫路に滞在しており、そのとき長女の敏子(1913-2005)はまだ2歳でした。

ロシア旅行のあらまし

この旅行は、1915年の夏から秋にかけて実行されました。簡単な日程を書き出してみましょう。

7月30日 大阪出発
7月31日 敦賀港発
8月2日 浦汐斯徳(現ウラジオストク)着
8月16日 哈爾濱(現ハルビン)着
9月4日 モスクワ着
9月7日 ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)着
10月4日 モスクワ着
10月12日 モスクワ発
10月23日 長春着
10月25日 京城(現ソウル)着
10月27日 釜山発、下関着
10月28日 姫路着、大阪着

大阪、新潟の敦賀からロシアのウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道で3カ月かけてロシアを横断し、モスクワ及びペトログラードに滞在し、旅の終わりには朝鮮にも立ち寄りました。同行者は、中尾都山、米川親敏夫妻の他、実業家の島定治郎(1877-1935)がいました。島氏は、モスクワ、ペトログラードに商用があったそうで、案内も兼ねていたのでしょう。この他、箏・三味線・尺八のメンテナンスのために楽器商が同行していても不思議はありませんが、それについては不明です。

旅行中の演奏機会は、あらたまった形式のものを数えると、48回にのぼります。ペトログラードでは、200人ほどの観客を集めた会や、立ち見が出るような会もありました。

曲目は、合奏では《八段の調》《千鳥の曲》《越後獅子》《御山獅子》、尺八独奏では《青海波》が頻回に演奏されました。その他、詳しく見ると興味深い傾向が見られますが、それはまた別の機会に。

さて、今日は、この壮大な旅行がどのように計画されたのか、振り返ってみたいと思います。

旅行の発端

中尾都山が毎月発行していた『都山流楽報』74号によると、当初、中尾都山は作曲のために避暑旅行の予定を立てようとしていました。その計画が明確になったのは、楽報第75号でした。ここで1度目の計画変更がなされ、近場の避暑旅行ではなくなります。

1度目の計画変更―海外旅行の発端

発端は、米川親敏が助演を務めた都山流尺八演奏会でした。この会は姫路の尺八家牧野直山の昇格披露演奏会でしたので、宗家の中尾都山が呼ばれて参加しました。

都山は、その会の際に「米川親敏君と話した結果、何か有意味な避暑旅行をと考えて、遂に同氏同道今回の渡航をする事に決した」と述べています。

旅行の出発日は7月30日、牧野直山の会は6月20日でしたから、出発の40日前に最初の相談がなされたことになります。

ただし、この時点では、目的は第一次世界大戦の義援金募集であり、行程は黒竜江州を巡遊し、哈爾賓に出る予定でしたので、中国東北部までの旅行でした。

ロシアの玄関口で2度目の計画変更

2度目の計画変更は、旅行中のウラジオストクでなされ、目的地はロシアの首都ペトログラードにまで延ばされました。これは、ロシア東部のウラジオストクで西へ向かう手立てを探していたところ、商用でモスクワ及びペトログラードへ行く実業家島氏の勧めがあり、行き先を変更したというものです。

この時、「露都ペトログラードに直行同地にて露独墺戦線より収容せられたる傷病兵を見舞ひ、帰途モスコーに立寄り、数日間滞在(楽報76号)」することになり、続いて、帰途には長春、大連、京城に滞在する予定も発表されました(楽報77号)。

3度目の計画変更は首都ペトログラードの滞在延長

3度目の計画変更は、ペトログラードの滞在中でした。2度目の変更の際にペトログラードを9月21日に出発する予定にしていましたが、この時、10月3日まで延長されました。その結果、大連にはよらず、京城も短くなりました。

この変更が記載された楽報77号は9月16日時点の記事とみられますので、9月17日以降に急きょ、変更されたことになります。

まとめ

現代よりも交通も通信も便が悪かった時代に、文字通り海外に飛び出した一行は、行く先々で状況に応じて予定を変更しました。結果的に、ペトログラードの滞在は9月7日から10月3日まで約1カ月に及び、その間に大使館や病院で20回以上の演奏を行い、終盤には人々の発起によって音楽学校のホールで尺八、箏、三味線の合奏や独奏を披露し、喝采を浴びました。

夏の避暑旅行は、一行の行動力によって、ロシアの大都市での盛大な演奏会に形を変えました。その演奏の内容についてはまた改めてお伝えしたいと思います。


この記事は、下記の論文をもとに構成しました。

  • 福田千絵 2008年「海外三曲公演の先駆け―初代中尾都山と米川琴翁夫妻のロシア旅行」『お茶の水音楽論集 徳丸吉彦先生古稀記念論文集』215-226pp.

また、森田柊山氏の著書には、この旅行についても詳しく書かれています。

  • 森田柊山 2021年『中尾都山伝 知られざる流祖の魅力』公財・都山流尺八楽会.

米川琴翁(親敏)についてはこちらもご参照ください。

  • 徳丸吉彦;福田千絵 2007年『完全なる音楽家―初代・米川敏子の音楽と生涯』出版芸術社.
この記事を書いた人
福まる

大学で日本音楽史と民族音楽学の非常勤講師をしています。最近、地元の資料館で古文書整理員を始めました。お箏と地歌三味線を少し弾きます。記事を書いて、邦楽の世界をもっとオープンにするお手伝いをしたいと思っています。

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