9月1日は防災の日。1923(大正12)年に関東大震災が起こってから今年で100年になります。当時よりも防災意識は高まったと思いますが、ひとたび災害が起これば当たり前の日常が崩れ去ってしまうことは今も昔も同じです。
100年前、邦楽に携わる人々が震災後にどのような日々を過ごしたのかを振り返り、その中で作られた曲をご紹介します。
関東大震災とは
関東大震災とは、1923(大正12)年9月1日(土)11時58分に発生したマグニチュード7.9と推定される大地震で、震源は東京湾から相模湾にかけて、つまり、東京ではなく神奈川や千葉が震源により近いと考えられています。
火災や津波で約10万5千人が死亡あるいは行方不明となりました。阪神・淡路大震災が約5500名、東日本大震災が約1万8千人なので、比較するとその被害の大きさに驚かされます。家の倒壊・全焼も約29万棟にのぼっています。
関東大震災の詳細については、内閣府の「関東大震災100年」特設ページをご参照ください。
https://www.bousai.go.jp/kantou100/
邦楽界に与えた影響―当日(初代米川敏子)
9月1日の当日については、箏曲家の初代米川敏子(1913-2005)が次のように回想しています。
当時、高輪(現在の品川区)に住んでいた敏子は、自宅の転居にともない、7月に新しい小学校に転校したばかりでした。地震が発生した日は小学校の始業式で、敏子は、慣れない小学校から一人で歩いて自宅に戻ったということです。そのときの不安は晩年になるまで記憶に残り、繰り返し周囲に語っていました。
震災直後の火災は広範囲に及びましたが、高輪は延焼を免れたということです。しかし、激しい揺れで鳥居が倒壊するなどの被害はありましたので、自宅にも被害はあったことでしょう。翌年には牛込喜久井町に転居しました。
*当時の高輪の様子についてはこちらの記事を参照しました。
港区-古壽老稲荷神社の震災復興記念碑
*初代米川敏子については、徳丸吉彦・福田千絵(共著)『完全なる音楽家―初代・米川敏子の音楽と生涯』(2007年、東京:出版芸術社)を参照しました。
邦楽界に与えた影響―活動ができず、東京を離れる(宮城道雄)
壊滅的な被害を受けた都心部がいつまで復興に時間がかかったのか定かではありませんが、この冬から翌年にかけて、邦楽家が遠方へ出掛けるケースがみられます。
箏曲家宮城道雄(1894-1956)は、音楽学者の田辺尚雄(1883-1984)から、活動しにくい東京から一時離れることを勧められ、震災の翌年1月に台湾を訪問しました。
宮城道雄の他にも、東京の活動を中止して遠方へ旅行や移住したケースがあります。おそらく東京で邦楽の教授や演奏の仕事がままならなかったということなのでしょう。その状態が、地震後、長く続いたことがうかがえます。
邦楽界に与えた影響―邦楽雑誌『三曲』の動向(藤田鈴朗)
邦楽雑誌『三曲』の編集主幹藤田鈴朗は、震災の影響で1923年の9月号と10月号を休刊しました。
11月号は発行されているのですが、これは震災後の邦楽家の安否を報告することが中心的な内容となっています。ここには、「三曲名家移転先一覧」が掲載されており、東京を離れて遠方に移住した邦楽家が多かったことがうかがえます。そして、この号の後、本格的に休刊に入り、結局、翌年6月号まで休刊が続きました。
7月号は、毎年、『三曲』発刊(1921年7月)を記念して周年記念の特集や祝辞が掲載されるのですが、震災による休刊後、1924年7月号をもって復活します。
さかのぼって藤田鈴朗は、『三曲』発刊3周年を記念し、1923年12月に初めての三曲名流大会を企画していました。東京の尺八・地歌箏曲家のうち代表格の数名で構成する珠玉のプログラムを組み、雑誌掲載が始まったところで震災にあい、中止となったのでした。
この三曲名流大会は、満を持して1924年12月に1年遅れで開催されます。震災から1年たって、ようやく大勢の聴衆を集める大きな演奏会を実施できるようになったということでしょう。
都山流尺八本曲《木枯》(初代中尾都山)
1924年に開催された三曲名流大会に、都山流尺八の創始者、初代中尾都山も出演し、独奏で新曲《木枯》を披露しました。
初代中尾都山は大阪の出身で、都山流の本部は長らく大阪にありました。しかし、大正初年に東京に教授所を設置し、大正11年4月に大きな決断をし、拠点を東京に移しました。
大正11年といえば、関東大震災の前年です。つまり、拠点を移してわずか1年半後に罹災したことになります。すでに西日本では大きな勢力を築いていた都山流ですが、東京ではまだ知名度も流人も少なく、まさにこれから拡大していこうと決意していた矢先の震災でした。
初代中尾都山は、震災後、10月19日にいったん東京を離れて大阪で参与会議に出席し、11月に東京に戻りました。その際に、自宅近くの芝公園の高台から東京の市街を眺めました。寒い公園の寂しい冬の木立に吹く冷たい風に心を奪われて作曲したという内容を、『三曲』に寄せています。
*《木枯》については、森田柊山著『中尾都山伝 知られざる流祖の魅力』(2021年、京都:都山流尺八楽会)を参照しました。
*上田流尺八道にも、上田芳憧が先だって作曲した《木枯》(1917年11月作曲)がありますが、同名異曲です。
まとめ
100年前の音楽家の行動は、現代の私たちにも多くのことを教えてくれます。
関東大震災の影響の大きさは計り知れませんが、少なくとも音楽家が通常の活動をできるようになるまでに約1年を要したことが分かります。多くの人々が家や身近な人々を失い、音楽家自身も家や楽器、近しい人たちを失う中で、音楽活動を再開することは非常に困難だったことでしょう。
災害は起こらないことが一番ですが、もし起こってしまったら否応なく巻き込まれてしまいます。被害を最小限にとどめ、日常を一日も早く取り戻せるようにするためには、日頃の準備を怠ってはいけませんね。先人の苦悩に思いを馳せるとともに、先人の貴重な経験から学ぶことが大切だと感じました。