ウィーンに《六段の調》-戸田極子とブラームス
ブラームスと言えば、子守歌やハンガリー舞曲で有名なクラシック界の巨匠ですが、日本のお箏の生演奏を聴いていたことはご存じでしょうか。
私はそれを聞いて「えっ、本当?」と思ってしまったのですが、その驚きのエピソードを詳細に描き出した本が、こちらです。2021年6月に出版された、萩谷由喜子氏による『ウィーンに六段の調-戸田極子とブラームス』(中央公論社、2021年)。今日はこちらをご紹介したいと思います。
ブラームスが生きていた時代
ブラームス(1833-1897)が生きた時代は19世紀。まだ日本とヨーロッパの行き来は自由にはできませんでした。
ヨーロッパの人々が日本文化に触れた早い機会としては、1867年の第2回パリ万博が知られています。この時は、渋沢栄一が幕府の視察団の一員として渡欧し、浮世絵や工芸品が展示された他、軽業師も芸を披露したとか。このような日本の伝統美術や芸能はパリの文化人に衝撃を与え、ジャポニスムという日本趣味の文化を生み出しました。
例えば、睡蓮の絵画で知られるクロード・モネやひまわりの絵が有名なゴッホも影響を受けていますし、ドビュッシーは自作曲の楽譜の表紙に浮世絵を使いました。音楽では、プッチーニの蝶々夫人が挙げられます。
ブラームスとお箏-本書のあらすじ
19世紀後半、日本文化はヨーロッパに一定の影響を与えたのですが、ブラームスがジャポニスムの視点で語られることはないと思います。ですが、本書を読むと、作品に影響は表れなかったものの、ブラームス自身がお箏を聴いたことは本当の出来事だと分かります。
戸田極子とは
本書のもう一人の主人公は、日本人の戸田極子(1857-1936)です。極子は、岩倉具視の長女で、お箏は山田流箏曲を初代山木千賀に習っていたそうです。夫の戸田氏共とは1871年に結婚し、鹿鳴館でも社交界の華となりました。
戸田伯爵夫妻はオーストリア=ハンガリー全権公使に任命され、1887年にウィーンに渡ります。3年に渡るウィーンの生活では、友好親善のためのパーティーが頻繁に開かれ、極子が箏を披露する機会もありました。
ボクレットの『日本民謡集 Japanische Volksmusik』
戸田極子の4人の子どもたちの音楽教師だったのが、ボクレットというピアニスト・音楽教師でした。彼は、極子の演奏する箏曲を五線譜に起こし、『日本民謡集』として出版しました。収録曲は、次の5曲です。
- 宮様:軍歌
- ひとつとや:民謡
- 春雨:雨期の夜の歌 琵琶伴奏つきの歌
*著者によって琵琶ではなく三味線であると訂正されています。 - 六段:箏のための六部よりなる器楽曲
- みだれ:箏のための十二部よりなる器楽曲
ブラームスと極子
ボクレットは、出来上がった『日本民謡集』を知人に献本しましたが、その中にブラームスも入っていました。そして、ブラームスが極子の演奏に興味を持ち、ボクレットを通じて会いに行き、ボクレットの楽譜に書き込みをしながら演奏を聞き入った、ということです。
その書き込みの楽譜がこちらです。
記事冒頭の絵画は、この時のブラームスと極子の様子を描いた作品です。これは、守屋多々志画伯による屏風絵で、1980年代、ブラームスの遺品に書き込みのある『日本民謡集』が見つかったことから日本の音楽研究者大宮真琴博士が調査し、出された報告に基づいて1992年に描かれました。
現在は、大垣市守屋多々志美術館に所蔵されています。
まとめ
今回は、ブラームスがお箏を聴いたという本をご紹介しました。
ブラームスと日本の伯爵夫人の音楽交流と、その史実が研究者や画家の手により伝えられたこと、どれも驚くことばかりですが、当時の交流も嬉しいことですし、それがたくさんの人の手によって現代に甦らせられたこともまた、とても喜ばしいことだと思います。
さらに、本書の末尾には、現代にも戸田家の国際交流が続いているというエピソードが語られていて、偶然の重なりに感動させられます。
また、使節団の様子や鹿鳴館の社交界の様子も詳細に描かれていて、そこだけ読んでも明治の日本に詳しくなれますよ。
著者の萩谷由喜子氏はこれまでも、幸田姉妹、田中希代子、諏訪根自子、クララ・シューマン、蝶々夫人の作曲を助けた日本人女性など、音楽史において活躍した女性にあらためて光を当てる著作を次々と発表されています。
次は、一体どのような女性が萩谷氏の手でよみがえるのか、今から楽しみです。