邦楽雑誌『三曲』とは?
今からちょうど100年前の1921年7月10日、ある邦楽雑誌が創刊されました。
三曲音楽の専門雑誌『三曲』です。
この雑誌は、大正10(1921)年に創刊し、東京大震災で一時中断した他は、戦争が激化する昭和19(1944)年まで足かけ24年間継続しました。
当代の地歌、箏曲、尺八の名人が記事を寄稿し、演奏会の情報を寄せ、主幹の藤田鈴朗は八面六臂の活躍でたくさんの記事を掲載しました。その結果、名人の芸談、楽器の演奏法や歌い方、楽曲解説、邦楽界のことなど、三曲関係のさまざまな情報が記録として残り、この雑誌は、現在も三曲研究における大切な文献となっています。
私の手元にあるのは戦後に出された復刻版です。上の写真は3巻だけですが、半年分が1巻ずつにまとめられていて、復刻版の巻数は全部で43巻!歴史の重み?を感じます。
藤田鈴朗と発刊の辞
『三曲』主幹の藤田鈴朗(本名は俊一、1883-1974)は、広島県出身で初代川瀬順輔に師事し、琴古流尺八師匠として活動し、『尺八通解』(1919年)という入門書も著していました。ところが、実父の逝去にあたり一念発起し、尺八師匠を辞して東京で『三曲』を発刊しました。その後は、毎月自宅で編集し、取材、邦楽家とのやりとり、記事執筆を一手に引き受け、東京で活動するすべての三曲関係者とつながっていたのではないかと思われるほどの活躍でした。
創刊号の発刊の辞では、この雑誌が三曲界の羅針盤となり、また、この雑誌に集まって人々が三曲の趣味を盛んにすることを目指したことが書かれています。仰々しい文章にはなっていますが、公平のために琴古流尺八師匠を辞してまで臨んだ藤田の心意気が伺えます。
名人たちの寄稿
その1:宮城道雄
箏曲家の宮城道雄は、大正6(1917)年に東京で旗揚げし、またたく間に時代の寵児となりましたが、『三曲』にも数回にわたって記事を寄せています。その一例が写真の右の記事。子ども向けの箏曲についての持論を記しています。このように、邦楽界の行く末を見据えた演奏家の寄稿は、当時の機運を伝えてくれます。
その2:初代中尾都山
尺八都山流の創始者初代中尾都山も『三曲』に記事を寄せた一人です。こちらでは、東京大震災後に作曲した自作曲《木枯》について綴っています。
このような自作曲の解説も豊富ですし、その他、修行の体験談などの芸談も掲載されています。
巻末の情報欄
筆者もこの雑誌を研究に利用している一人ですが、特に各号の巻末にある彙報欄は興味深いものです。主に東京在住の三曲家の動静が記されている他、全国の演奏会情報も網羅されており、眺めていて飽きることがありません。また、「雑録」には、演奏家から寄せられた講習会や演奏会などの案内が掲載されています。写真の雑録は昭和15年のものですが、象牙の使用が制限されて憂慮している記事が載っており、戦争の影響が伺えます。
戦争に翻弄される三曲界
『三曲』では、当時の社会情勢も垣間見えます。
しだいに戦時色が濃厚になり、教授・演奏が自由にできなくなっていく様子が分かります。政治的な圧力も始まる中、主幹の藤田は、三曲家の活動の生き残りをかけて大日本三曲協会を設立します。1940年6月、現在の日本三曲協会の前身となる全国的な協会が成立し、その年の後半には、大規模なイベントが幾つも開催されました。しかし、戦況悪化には勝てず、ページ数が減っていき、最終的に政府の雑誌統制にしたがって廃刊しました。
まとめ
戦後は、後継誌の『日本音楽』、その後に創刊された『季刊邦楽』などの雑誌がありますが、20年以上に渡り、たった一人の編集者によって継続された邦楽雑誌は例を見ません。この雑誌に掲載された数々の芸談は、今でも演奏家が参考にしていると聞いています。
創刊当時の藤田や周囲の三曲家が100年後をどのように想像していたか推しはかるすべはありませんが、彼らの想像以上に世の中は変化したことでしょう。でも、『三曲』の演奏家の記事を読んでみると、邦楽に対する思いは、もしかしたらあまり変わっていないかもしれない、と思わせられます。
そして、本サイトWagicも今年は節目の年です。『三曲』にあやかってこれからを担う邦楽サイトになりますように。
さて、今回、100周年ということで記事を書かせていただきましたが、とても1回では魅力を語れませんでした。音楽関係の図書館には所蔵されているものの少ないようですので、こちらWagicで、折に触れ、『三曲』の面白いところをご紹介できればと思っています。