どうも、じーもです。
今は夜の川沿いのカフェでこれを書いています。(なんだかこれだけでおしゃれな気分だ…!笑)
今回は前回の記事の続きです。ぜひ前の記事を読んでからどうぞ。
行間を読む・音を見る
さて、今日は「日本語は見る言語である」という仮説を前提として、もう少し踏み込んで考えてみようと思います。
日本には「行間を読む」という言葉がありますよね。
行間を読む…文章には直接表現されていない筆者の真意をくみとる。
(デジタル大辞泉(小学館)より)
「文章には直接表現されていない筆者の真意をくみ取る」って…もうエスパーじゃないですか。(笑)
でも、こんな言葉があるくらい、日本人は見えないモノをみようとしてきたんだと思うんです。それに日本人は音も見ようとしてると思うんです。例えば、
鹿威し
「ししおどし」です。そう、あの、日本庭園や和食のお店にありそうな、水のボジョボジョとちょんぎられた竹が生み出す「カーン!!」という素晴らしい響き…!
すみません。少し書き方が悪かったですが、情緒あふれる彼(彼女)のことです。
あれは、ある意味「音を見ようとした」結果生み出されたものだと私は感じているのですが、皆さんはどう思いますか?
無ではなく余白という認識
ということで、日本人って、見えないモノをどうにかして見えるモノにしようとしているんじゃないかと思うのです。だから、
ありがとう。
ほんとに。
こうやって書くことで、何もない空白のところを「無」ではなく。「余白」として捉え、その間(ま)すらも一つの表現として捉える。そう感じられるようになっているのではないでしょうか。
だとすれば、邦楽の様々な分野おける「間(ま)」の扱い方がとても味わい深く感じられると思うんですよね。
たとえそれが「音楽」でも。「うた」でも。「おどり」でも。きっとそこには「間(ま)」を大切にする文化があるんじゃないかと思うんですよね。
ということで、2回にわたり持論を展開してみました。ま、ひとり言なので、ぜひ何かご感想あればどこかでお聞かせください。
では、本日もよい一日を。