どうも、じーもです。
…お久しぶりです。さて、久しぶりの投稿にもかかわらず大層なタイトルになってしまいました。(笑)
といっても、一個人の勝手なヒトリごとですので、いつもどおり気軽に読んでもらえると嬉しいです。
ひらがな・カタカナ・漢字・rōmaji
日本語って、世界的にもかなり難しい言語と言われているそうで。その理由の一つが表記の方法が複数であることが挙げられるそうです。例えば、
今日は、カフェ“sakura”という店で、まったりと1時間くらい過ごした。
という文章。漢字やひらがな・カタカナ、ローマ字に加え数字。全て読めないと無理でしょ?しかも、「今日」と書いて「きょう」と読まなきゃいけない。「いまび」じゃダメなんですよ。それと、「まったり」という表現。ニュアンスを説明するのが難しいけど日本人だとなんとなく読み取れてしまう表現。…うぅ、難しい。(笑)
ちなみに言うと、音読みと訓読みという2種類の読み方があるのもそもそも珍しいらしい。と、ここまで読んで一旦考えてほしいんです。いえ、試してほしいんです。
先ほどの文章を読んでみてください。
で、想像してほしいんです。今読んでいる時や今読んだ文章を聞いた時。そのときに漢字やひらがなカタカナやローマ字などを区別する必要ってありますか?
何が言いたいかと言うと。音声で聴きとる分には区別が必要なんじゃないか、ってことなんです。でも、そうだとすればどうして日本語はこんなにも多くの表記方法が今もなお残っているんでしょう?
日本語は見る言語であるという仮説。
そこで出てくるのがこの仮説なんです。
だって、見ることを前提に考えると…。
ありがとう
有難う
アリガトウ
arigatō
なんだか受ける印象が違ってきませんか?
もちろんそれを受け取る感性があるというのも前提になってしまっているんですが。
でね。その仮説をもとに考えると、日本人は様々な場面で「見る」ことを。つまり、見えないものでも「見よう」としてきたんじゃないかと思うのです。
長くなってきたので、続きは次回に!(やっと邦楽に関することも出てくる…はずです。)
それでは、今日もよい一日を。