「箏とスーツケース1つ」ニューヨークへ飛び出す!箏演奏家 黒澤有美さん(第1弾)

「箏とスーツケース1つ」ニューヨークへ飛び出す!箏演奏家 黒澤有美さんインタビュー

「箏とスーツケース1つ」ニューヨークへ飛び出す!
ニューヨークでの活動20年、箏演奏家の黒澤有美さんをインタビュー

2021年12月 ニューヨーク×徳島 Zoomインタビュー

2020年の初めより新型コロナウイルスによる感染が世界中に広がり、想像だにしなかったパンデミックとなりました。現在はオミクロン株の蔓延が脅威です。世界中で三密をさけるように促され、特にイベント事業は軒並み延期や中止。それは邦楽業界でも同様、演奏をメインに活動していたプロにとって、大変な状況です。そんな中、ニューヨークで活躍されている1人の女性を思い出しました。

ご両親ともに演奏家で和楽器店を営んでいる家に生まれ、箏コンクール入賞歴は数知れず、誰もがご両親の後を継ぐと疑いもしない状況下。そんな彼女がニューヨークへ飛び出し20年!いったいどんな状況で今の演奏家作曲家としての地位を築き上げたのでしょう。

エネルギッシュな黒澤有美さんの熱意や行動力は、昨今のコロナパンデミックに打ち克つためのヒントになるのではないかとも思い、取材を申し込みました。

インタビュー記事は全3回のシリーズで掲載予定です。本ページは、第1弾です。

Zoomを使ったインタビューの様子

(インタビュアー:レオ)―いつ頃からニューヨークに行きたいと思ったのですか?

(黒澤さん)大学時代に、いや、大学前からですね。7,8年ぐらい、ずっと行きたいと思っていました。

-どうして大学時代にニューヨークへの想いが?

産まれた時からというと大げさかもしれないけど…。家が家なもんですから。ずっとそういう箏の環境にいて、ずっと演奏もしてきて。箏だからこそ、他の楽器や分野とも混ざらなければいけない、とすごく感じていたんです。「混ざって新しいものを作る。」それが必要だと強く思っていて。それを実現するために行動しましたね。

-そうなんですね。ちなみにそれは誰かに言われた、という経験があったんでしょうか?

全然ですね。何をきっかけに、というわけではないですけど。伝統楽器だからこそ他と混ざらないと。そうすることで新しい芸術が生まれるというか。そんなことをずっと思っていたので。そこでじゃあどこが、となったときにまっさきにニューヨークが思い浮かびましたね。ニューヨークという場所は基本的にすべてがそろっているところなので。(笑)一番都合がいいだろう、と思いまして。

-ちなみに私は生まれ変わったら踊り子になりたいんです。(笑)ダンスとかをしているわけではないですが、ミュージカルというか。ニューヨークに初めて行ったときに、「ここは私の街だ」と思ったんです。(笑)実はそんな個人的経緯もありまして、黒澤さんがニューヨークで活動している事に、とても興味がわいたんです。黒澤さんは、ニューヨークに誰か好きな人がいたとか、そういうわけではないんですか?

私は全くですね。(笑)何の伝手もなく、何も知らず。(笑)

-じゃあ本当に楽器一つ持って行かれたんですか?

楽器一つと、スーツケース一つですね。

-え、それだけですか?

だけ、ですね。(笑)

-え、すごい!

もちろんその中には立奏台とかありますけどね。他の普段のモノは限られてきますけどね。とりあえず行くしかない、と思いまして。(笑)

-ご両親は反対なさらなかったんですか?

猛反対ですね。両親ともに。しかもそれだけでなく、あらゆる人に反対されました。(笑)ただ、祖父だけが唯一「そういうチャレンジすることもいいんじゃないか」ということを言ってくれましたね。でも、あとはもう全然、みんな反対でしたね。

-ひぇ~。今はニューヨークに行かれてから何年でしたっけ?

年が明けると、20年になりますね。(笑)

-すごい!

3年目ぐらいですかね。カーネギーでリサイタルをしまして。そのときに両親が見に来てくれて、やっと何がしたいのかわかった、と言われました。そこからはすごく理解してくれるようになりました。

-演奏されているのは20弦ですか?25弦ですか?

20弦ですね。

-20弦もニューヨークへ行く前から長くされていたんですか?

そうですね。15歳の時から始めたので。

-ピアノもされてたんですか?

小さいころ通っていたんですが…。どうにもこうにも。なんというか…拒否でしたね。覚えてはいるんですけど。なぜか、全然拒否で。途中で辞めちゃいましたね。

-それでも、今はご自身で創作されたりされているんですよね?

ね。ほんとに。

-創作はニューヨークに行ってから始められたんですか?

そうですね。東京時代にいつかそうなるだろう、とはどこかで分かっていたんですけど。やっぱりもう…なんていうか。常に頭の中で音が鳴っていて。その時は作曲を具体的に自分がする、とはわかっていなかったんですけど。常にぐるぐる頭の中で音が鳴り続けていたので。それをどうしたらいいんだろう、というのはすごく悩んでいましたね。そのエネルギーをどこに向ければいいんだろう、みたいな。

-「音楽が鳴り続けている。」それは、箏で鳴っているんですか?

ん~そういうのではなくて。自分で生む音、というか。別に箏の音色が鳴っているわけではないんですけど。メロディーというか。「あ、こういう音、いいかも。」みたいな。とにかくずーっと鳴っていて。それがもう自分でどうしたらいいのか、っていう想いがずっとあった気がしますね。

-そうなのですね。ちなみに語学は大学の時に身につけられたのですか?

ん~。当時は反対を押し切って飛んで行っちゃったので。(笑)別に準備をした、というわけでもなかったですし。現地に行ってから、という感じですかね。(笑)

-じゃあ高校や大学で学んだ内容で、という感じですか?

大学で、というか。中学校…くらいかな?そのときからの基本的な英語能力のまま、ですかね。

-初めは発音とかも苦労したんではないですか?すぐに通じましたか?

いや、通じる前に、まず何を言われているかわかんなかったですね。ニューヨークは訛りも結構あるので。それまで両親のコンサートツアーでアメリカツアーに中学の頃2回くらい行きましたが。あとから父がコンサートに来てくれた時(3年目のリサイタル)に、「やっぱり中学の頃、海外に連れて行ったことが間違い(海外にとびだしちゃった)だったんだな。」と笑いながら言っていましたね。(笑)ちなみに中学の頃は、ニューヨークには行ったことなかったんです。本当にニューヨークで聞く英語は他の地域で聞くのとは全然違っていて。慣れるまでには時間が必要でしたね。

-すごいですね。やっぱり子供の頃にそんな経験があったんですね。そういえば、住むところは日本にいる時に確保していたんですか?

ん~とりあえず。具体的にアパートを見つけるまでは、数か月滞在していたところがありましたね。現地についてからは、足を使ってどこに住むか、探していましたね。

-その時からずっとニューヨークですか?

ずっとニューヨークですね。


 

●今回はここまで。これからニューヨークでどんな生活が始まるのでしょう!皆さん、次回(第2弾)をお楽しみに!

この記事を書いた人
藤本玲

女に生まれた事を悔やんだ少女時代、まあ女でもいいかと30代、やっぱり女でよかったと50代。生まれ変わってからは、性別なんか関係ないと気づく!箏に出会い50年、常に小さな夢を追い求めてきた。時代の節目にたち、周りを見渡せば素晴らしい仲間がいっぱい!できるかもしれない。「新しい邦楽の在り方を求めもうひと踏ん張りするぜ!」

藤本玲をフォローする
インタビュー
SNSでWagicのコンテンツをシェアする
Wagic(わじっく)